佐々木毅「保守化と政治的意味空間」

 

私にとって思想形成および人生における目標選択の上で絶大な影響を与えた書物が四冊ある。第一に同調圧力というものに徹底的に反発する子供であった自我の在り様に政治理論的な根拠を与えてくれた自然権的・原理主義リバタリアニズムの金字塔であるノージックアナーキー・国家・ユートピア」。第二に集産主義の道を取ることによって高邁な理想が全体主義的抑圧に転化することを説いたハイエク「隷従への道」。第三に二十世紀の保守思想を分析し、自由主義自由社会の保守思想であらねばならないという確信を抱かせた落合仁司「保守主義の社会理論」。第四に日本のこれからの保守思想を模索するうえで出発点となるべき二つの保守主義概念を提示し、元々興味のあったアメリカ保守主義をして政治研究者としての主題とすることを決意せしめた本書「保守化と政治的意味空間」である。

東京大学法学部第三類(政治学科)に在籍する人間として、三代前の本学総長であり東大における政治学の体現者と言っても過言ではない著者に正面から挑むことはまさに神をも恐れぬ所業と言えよう。当時の最新の国内外の政治経済の情勢分析と思想的展開の雄大さを畏敬し学びつつ、しかしその結論に全力で抗することが、私の学究としての目標であり楽しみでもある。本稿はそのささやかな出発点である。

 

 

一 〈政治的意味空間〉と二つの保守主義

 

 まずは本書が擁護するところの「政治」及び〈政治的意味空間〉概念の指す内容、および本書の論旨を確認しよう。第2章28頁に「〈政治的意味空間〉とは、政治家を含め国民が多かれ少なかれ共有する、政治や政策の基本原則や理念、イデオロギーからなる意味空間である」と定義されている。また29頁には「〈政治的意味空間〉は政策を中心にして形成され、政策は政治社会全体を念頭において立案され、可能な限り多くの人々を結びつけ、その支持を得ようとするものである。……政治とは本来、政治社会全体の事柄を処理する営みである……」とある。政治社会全体にかかわる政治は「大政治」と言い替えられ[1]、特定の利益集団や社会集団、あるいは「地元」の利益の安定的維持であるところの「中政治・小政治」と対比されている。要するに、〈政治的意味空間〉とは政策形成を軸に展開される、個別化されていない全体的な政治が展開される空間の謂いである。

第Ⅰ部では〈政治的意味空間〉の概念が提示されると同時に、日本における保守主義のありようが述べられている。自民党政治とは個別的利益への個別的配慮に規定された中政治・小政治であり、これが「利益政治」[2]「地元民主主義」[3]あるいは「生活保守主義[4]と呼称されている。このような政治による〈政治的意味空間〉の解体は国民を大政治から疎外し、ますます私的利益の追求に専心する傾向を生み[5]、それが中政治・小政治の繁栄に拍車をかけるという悪循環構造が指摘されている。著者にとってこの〈政治的意味空間〉の解体への危機意識は単なる政治的公共善の喪失への慨嘆のごとき政治的唯美主義に立脚するものではない。1980年代の政治的経済的国際化(日米貿易摩擦靖国問題)が日本政治に「横からの入力」を齎す中で従来の中政治・小政治の枠組みでは対処できない経済自由化と福祉国家・産業保護政策との相克のような課題が立ち現れる中で、その処理可能性への差し迫った危機感が著者をして〈政治的意味空間〉の確立を強く主張させていたのである[6]。その具体的な処方箋として小選挙区制の採用による政策本位の選挙の実現が提示されている[7]。また、自民党・官庁・利益団体の「鉄の三角同盟」[8]を政治的インフラとして個別的な既得権益の保護を求める「生活保守主義」の精神を真っ向から否定するのではなく、自己利益を追求する際の視野を広げる「啓蒙された生活保守主義」によって脱(大)政治化傾向に歯止めをかけようとする提案もなされている[9]

第Ⅱ部においてはアメリカ保守主義とそれに対抗してリベラリズムの刷新を模索するネオ・リベラリズム[10]について取り上げられている。アメリカ保守主義の著しい特色として、自由の擁護と国際性を指摘し[11]、続いて二つの政治的主張として市場の擁護と減税による経済成長主義を挙げている[12]。このようなアメリカ保守主義が、政治経済の国際化の中で一国主義的福祉国家政策が困難になる中で、政治システムが市場に多くを委ねることで国民の経済生活への責任を放棄したものであるとして描かれている[13]。このアメリカ保守主義の反政治性を浮かび上がらせるために民主党側の新思潮であるネオ・リベラリズムが参照される。ネオ・リベラルは伝統的なリベラリズムに対し市場と経済成長を重視することは保守主義と変わりない[14]が、その環境整備として政府は教育等の人的投資、労使協調路線の推進、産業政策などの役割を果たすべきとされる[15]。これらの政策の思想的基礎は社会的公正に対する政府の責任や、従来個別利益に奉仕することの多かった政府の諸政策の公共利益の観点に基づく再編といった政治社会全体へのまなざしである[16]。著者はここに公共哲学の復権を見出し、政治の再生に向けた試みの一つとして注視しているのである。

 

 

二 政治社会論と共和主義

 

 筆者の意図が政治社会を舞台とした政策形成としての政治の擁護[17]である以上、その政治社会は一定の大きさに限定された具体的な社会であらざるを得ない。なんとなれば、無制限の時間的・空間的広がりを持つ政治社会では共通の利益や問題意識を見出すことなど不可能だからである。共通の政治的アイデンティティを持つ国民が自己決定するプロセスとしての政治に価値を置くという点で、本書の議論は明らかに個人主義自由主義ではなく共同体主義的共和主義に基礎を置いている。第Ⅰ部では政治が扱う利益の個別化・断片化による共通善の喪失が、第Ⅱ部では個人の経済活動の自由に基礎を置く市場経済システムを政治の対象から除外しようとする態度に、それぞれ批判の焦点になっていると言えよう。

共和主義的観点では、経済システムが政治のコントロールを離れ自律することは物質主義や人間疎外として強く問題視される。渡辺(2006)ではこれを〈P=O図式〉として説明している。人間の動物的な生存・再生産の活動であるオイコスは人間の政治的動物としての本質的活動であるポリスの下位に位置するというこの図式は、政治の経済に対する優越性を説く共和主義的言説の根拠になってきた。経済秩序のグランドデザインを政治が提示すべきであり、そのために〈政治的意味空間〉の確立を訴える本書の議論はまさにこうした共和主義の典型例と言えるだろう。

しかし、近代の市場経済はこのような共和主義の古典的(オイコス的)経済観を超えるダイナミズムを持つものである。ハイエクが明らかにしたように、市場はもはや動物としての生存と再生産という目的に従属するオイコスではなく、個々人が独自の目的を持ち活動する「場」である脱目的的秩序としてのカタラクシーであり、政治経済学という学問領域の成立はカタラクシーの時代を告げる画期であったのだ。近代の市場社会/自由社会の原理としての自由主義は政治的アイデンティティによって限定された共和主義的政治空間を破るイデオロギー性を持っているのであり、その擁護を使命とする現代のアメリカ保守主義が共和主義的な政治による経済のコントロールに真っ向から立ち向かうことは自明である。

 

 

三 自由主義自由社会の保守主義

 

 ハイエクが言うように、近代の市場社会/自由社会の基本理念である自由は徹底して消極的・形式的・抽象的な概念であり、アメリカ的なリベラリズムのように自由の概念に社会的公正を組み込もうとすれば、換言すれば自由社会がその内在論理だけに基づき政治的問題解決ができるように何らかの積極的実質的な価値を自由概念の中に吹き込もうとすれば、たちまち全体主義イデオロギーに反転する恐れさえある。自由を純粋な形で擁護しようとすれば、自由の名の下に何らかの具体的問題解決の営為である政治を肯定することは困難なのである。したがって、自由社会もまた時間的空間的領域が限定された具体的な社会としてこの世に存在する限り結局のところ必須である政治は、自由以外の何らかのものによって根拠づけられざるを得ないのである。換言すれば、自由の極大化を目指す純粋な自由主義は、自由社会の一般的普遍的な根本規範でありつつも、具体的な自由社会を維持する営為の正統化原理とはなりえないのである。

 自由の理念は自由社会が有するかけがえのない性質を基礎づけるが、自由社会を閉じた、すなわち時間的空間的限界を持つ具体的社会として維持する原理たりえない、という問題にハイエクはあまりにも無頓着であったと言わざるを得ない。萬田(2008)はこの点を正面から指摘し、文明社会の維持・発展におけるネイションという枠組みの必要性・有益性を指摘している。また佐藤(2008)は主としてM.ポランニーに拠りつつ「開かれつつ閉ざされた社会」として自由社会を描写することで自由社会に影のように付きまとう道徳的ニヒリズムの回避を模索している。

いずれにせよ、自由社会を自由主義的なままにいかに閉ざすかということは自由社会の存立にとっての一大問題であり、他国の保守主義と異なり自由社会の保守主義であることを第一義的なアイデンティティとするアメリカ保守主義の思想史は自由社会の閉ざし方の模索という人類史上初の思想的試みの歴史であるといっても過言ではあるまい。共和主義的な(コンスタン的に言えばアナクロニズムとしか言いようのない)「政治の復権」を超えた、自由な社会を維持するための新次元の保守政治を目指すアメリカ保守主義に反政治というレッテルを張り付けるのは、近代自由社会の本質を見落としたいかにも古代ギリシャ的な議論に映るのである。

アメリカ保守主義自由社会の基本理念としての自由概念を純粋な形で維持しつつ、アメリカ社会という具体的な自由社会を擁護するために、自由社会の経済システムである資本主義経済体制がそれ自体道徳的なものであることを示すべくユダヤキリスト教的価値を援用してフュージョニズムとして展開していった。キリスト教信仰が相対的に極めて盛んなアメリカにおいてフュージョニズムはリベラリズムに勝るとも劣らない確固とした政治勢力の思想的基盤となり、自由社会の理念を相当程度浸透させることに成功したといってよい。このアメリカ保守主義がどこまで特殊アメリカ的でありどこまで「自由社会の保守主義」としての普遍性を持ちうるのかが今後の私の重要な研究テーマである。

 

 

 

 

 本書刊行の二年前に上梓された「現代アメリカの保守主義」とともに、本書は日本におけるアメリカ保守主義に関する偉大な先行研究であり、特にM.ノヴァクの民主的資本主義論に関する詳細な分析はアメリカ保守主義における自由の擁護と道徳的ニヒリズム批判の両立の一つの到達点に迫るものであり、その後のアメリカ保守主義の変容(あるいは解体?)を考察するうえで参照すべき基準地点となるように感じられる。

 しかしアメリカ保守主義における自由と市場の擁護を反政治主義として扱うのは著者の自由観並びに政治観のアナクロニズムを表しているのではないか。政治社会論と〈政治的意味空間〉に代わる、「自由社会の保守主義」に内在する豊かな政治空間の探求が、私の政治研究者としての目標である。

 

 

[1] 33頁。

[2] 29頁。

[3] 30頁。

[4] 71頁。

[5] 34頁。

[6] 37頁。

[7] 45頁。

[8] 81頁。

[9] 83頁。

[10] 148頁。レーガン保守主義に対抗するための、旧来型のリベラリズムを刷新しようとする民主党内の新しい思想的傾向の呼称であり、通俗的な意味における「新自由主義」とは異なることに注意。

[11] 108頁。

[12] 113~114頁。

[13] 「はじめに」ⅷ~ⅸ頁。

[14] 157~158頁。

[15] 159~161頁。

[16] 173頁。

[17] 「はじめに」ⅸ頁。

 

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